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2010年6月 2日 (水)

エピソード5:「Water Melonman」

ある土曜日、一人の中年男性が昼過ぎにやってきた。名前は大野寿和、プロのドラマーである。

車を店の脇にある三台ばかり駐車できる欅の中庭に停めてふらっと、店とは別の自宅の玄関から入ってきた。

居間のソファーでゼンさんはハンコックの「ヲーターメロンマン」(「Takin’ off」/Herbie Hancock/BN)を聴いていた。

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「やあ、ゼンさん、元気、久しぶり」

「おお、トシちゃん、元気?」

 いつも握手が二人の挨拶である。

「チョットお願いがあってね」大野が切り出した。

「なに、かしこまって、何か飲む?」

「そうだな、冷たいものがいいな」

 ゼンさんは、よく冷えたクランベリージュースをだした。

「これ綺麗だね、この赤い色、実は若いピアノを一人面倒見てくれないかな」

「なによ、若いピアノって」

 実践不足で、修行させたいんだ」

「どのくらい弾けるのかだね」

「結構いける、スタイルはまあ、言えばピーターソン風だけど未だ程遠い、テクは   ある、ジャズに浸りきれていないんだ」

「一度聴かせてよ、営業時間でいいから飛び入りでやってよ」

「OK、分かった、明日の日曜は俺マーヒ(暇)だから、連れてくるよね、9時くらいかな」

大野はプロのジャズミュージシャンにしては如才ない人物で、普通の大学を出てプロのドラマーになった。

学生時代に大学のジャズ研究会にいて、そこからアルバイト仕事が重なるうちにプロの世界に入った苦労人である。

正規の音楽教育を受けた訳ではない、実践の積み重ねでここまで来た。

CDも三枚出しているし、サイドとして10枚くらいのレコーディングに参加している。

ゼンさんとは学生時代からの顔見知りで、学校は違うけど学生同士のコンサート等でよく会ったことがあった。

ゼンさんは卒業後さっさと社会人になり、大手の電機メーカーに勤めて、ジャズは趣味にしていたけどある日、ライブハウスの案内に「ドラム大野寿和」と出ていたのを目にして聴きに入って再会した。

学生時代からの気の置けない信用できる仲だし、ゼンさんが勤め人時代からお互いに助け合い、励ましあってきた仲である。

・・・中庭まで送りに出てきて「叉明日、じゃーね」といつもの口調で挨拶してわかれた。

「彼もジャガーに乗るようになったか」

ドラムの技量はバカテクという訳ではない。

むしろ人柄で仕事が増え、ファンが増えていった。

そしてジャズミュージシャンに必要な例のハートを持っていた。

  ・・部屋の中ではCDが変わり、Horace Silver/Blowi‘ 

the blues away(BN4017)が鳴っていた・・・・・

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<1961年~1966年ゼンさんの中学、高校時代の回想>

ゼンさんは大野が若いピアニストを面倒みてくれと・・・そう自分がジャズを始めた時は・・・とソファーに寝ながら思い起こしていた。

1962年ホレス・シルバー5が来日することになった。やはり産経ホールへ軒山と行った。

それに先立って、軒口がシルバーいいぜと、いつもの調子で講釈をはじめた。

猫背でピアノに覆いかぶさる様に汗を流しながら弾くんだ、左手に特徴があって、ゴツゴツしたアクセントがファンキーでよ・・・と未だ見たこともないのに、見てきたようなことを言う。買えよ「ブローイング・ザ・ブルース・アウエイ」(BN)。「でも3000円だろう」僕は高いなと思った。

幸い誕生日が近かったので親にプレゼントの交渉をして、買えることになった。

銀座のヤマハへわくわくしながら学校帰りに軒山と行った。

当時のジャズ売り場は入って左手前、20代後半の女性が係りで、ブルーノートというコーナーからLPを抜き出して見た、

ジャケットがいい、飛び切りいい、この墨絵見たいなタッチで絵から音が出てきそうだ。

「ブルーノートってやはり段違いだな」と軒口に言った。

「おい試聴させてもらおうよ」と軒山が言った。

係りの女性はあなた達がこれ判るのという感じで、カウンター脇のターンテーブルに乗せてくれた。

軒口が言った「あの、B面の一曲目だけでいいです」

「シスターセディ」が始った。

ヤマハの袋にいれてもらって帰ろうとすると、リストを上げましょうという。

タイプライタで打ったものを青焼きしたブルーノートのリストで、1501番「マイルス・デイビス第一集」から始る。タイトル、パーソネル、曲名、が打ってあった。

B4版二枚でブルーノートが全てだった。

今回は買わない軒口もずうずうしく「僕にもください」と言って手に入れた。

これは我々の宝物になった、時間があると二人で眺めて、次は何を買うか品定めをしていたが、なかなか買えなかった。

帰りに軒口の家に寄ってレコードを聴いた、特に「シスターセディ」は10回くらい聴いた。

「ここのところ、これセカンドリフっていうんだ、カッコいいよな」

簡単で覚えやすいメロディーだ、10回も聴くうちに覚えてしまった。

シルバー初来日、このコンサートへ行くことになった時、軒口がまた悪巧みと思いついた。

「俺達、立ち見席だろう、遠くで見えないから、場内が暗くなったら一番前の通路で聴こう、でもしゃがんでいると疲れるから、風呂場の椅子をボストンバッグへいれていって、それに腰掛けて聴こう」

この作戦はまんまと成功した。

幕が上がり、演奏が始りプログラムが進むうちに二人は我を忘れて聴き入っていた。

「シスターセディ」が始った、ブルー・ミッチェルとジュニア・クックがフロントに並んで大迫力でのってくる。

坊主頭の二人が身体を揺らし、首を振って聴き入る様は傍からみたらさぞ滑稽だったに違いない。

セコンドリフが始った、二人で歌い始めた、16小節くらいのところで、シルバーが「アレッ」という感じで目で探している。

僕達はお構いなしで合わせて歌い続けた、それをシルバーが発見した、「あの連中か・・」。

僕とシルバーの目が合った、夢中で歌っていた、シルバーはニヤッと笑ってうなずいた。

<コンサートの幕の開け方ではMJQも良かった・・・・数ヶ月後、MJQが来ることになった。

初来日のMJQの幕の開け方がカッコ良かった。

パーシー・ヒースが一人登場、ブルースコードのランニングベースを弾きだす、コニー・ケイが出てきてレガートをあわせる、ジョン・ルイスがフィルインする、最後にミルト・ジャクソンが登場、大拍手でブルースが始る。

この出だしはイカシテいた。>

1963年高校2年春、軒口と僕、そして新たに理屈っぽい評論をする小林が加わった。

三人で話していたとき、軒口が言い出した「バンド組もうよ」「やろうぜ」

軒口が言った「俺アルト、もう近くの質屋で流れたの売っているやつ買ってもらうんだ」

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小林が言った「ドラムやりたいね、俺って結構リズム感いいんだ、家で聴いている時に押さえ箸で空き缶叩いているけど、マックスローチと同じに叩けるぜ」自信家である。

「おれはピアノかな、取りあえずやっていたから」小野田は言った。

「じゃあ、あとはベースが居ないな、誰かいないかな」

小林が直ぐに言った「安藤が結構好きなんだってJAZZ」

「じゃあ、あいつ入れちゃおうよ」と軒口。

カルテット誕生である。

後日優等生の安藤が言った、「学校でやるには届け出がいるよね、クラブ活動の」

軒口曰く「モダン・ジャズ研究会」でゆこうぜ。

「でも指導顧問の先生って誰に頼む?」俺が言った。

あの先生はいやだ、あいつなら良いけどでも他のクラブの顧問をやっているし、「音楽の専任がいるだろう」

安藤が言った。

「あいつか、なんか嫌なやつだよな、でも一応音楽の教師だろう、取りあえず話てみるか」軒口が先頭に立って職員室へ行ったのはその翌日だった。

音楽の先生は背の低い存在感の無い頼りなさそうな教師だった。

「君達ね、僕は音楽部の指導顧問もやっているんだ、ジャズ研究会といっても、ラッパのマウスピースの口のつけ方から違うんだからね。僕にはできないね、だれか他の先生に頼みなさい」けんもほろろだった。

「タイミングが悪いな、この記事」と軒口が新聞を持ってきて言い出した。

・・・・・「麻薬の上に咲いた芸術・ジャズ」・・・・と大見出しだ。

四大ドラマーの対決と銘打ったコンサートで来日した、フィーリージョージョーンズが麻薬所持で捕まった。

四人で考え込んだ、モダン・ジャズ研究会では職員会議で否決だな。

いまやリーダー格の軒口がいいだした「現代音楽研究会だ、いいネーミングだろう」

ある日職員会議に四人は呼び出された。

教頭が「現代音楽研究会」って何をするんだ、音楽部と一緒ではまずいのか?と質問してきた。

軒口、一世一代の詭弁「我々はジョンケージやシェーンベルグ等の研究をします、従って現在の音楽部と一緒に楽隊マーチの演奏はできません」

「音楽の上原先生、そうなんですか?」教頭が聞く。

「ええ、まあ」内心、随分違うこと言うじゃないかという顔をしている。

「誰か指導顧問の先生がいないとね」

「私がやりましょう」突然申し出たのは、漢文の若い先生、高崎先生だった。

現代音楽研究会はこうして誕生した。そして音楽室を練習場として借りられることになった。

翌日の昼休み、小林が軒口に「アドリブってどうやるか知っているのかよ」

「それが問題なんだ、コード進行に従って・・というんだけど、コードってわからないからな」

「おい、小野田、おまえピアノやっていたんだろう、コードって何だよ」

「うん、でもコードって和音だろう、ドミソとかドファラとか言う」

「まあ、いいや、レコードを真似するしかないだろう、最初は真似してそして、アドリブというより、メロディがあるじゃない、テーマがさ、それをフェイクしてゆくか」軒口が専門用語を連発しているが自分でも分かっていない。

「フェイクって?」安藤が聞きただした。

「なんというか、崩すということ、メロディを正確にやらないで、チョットずらしたり、やるだろう、レコードでも」軒口が解説している。

小林が聞いた、「安藤、お前ベースどうするの楽器」

「親にいったら幾らかかる」というので、この間神田へ行って見てきた、そしたら安いので1万5千円であったと言ったら、出してくれるって。

「いいな、やはり優等生だからな」小林が羨ましそうだった。

「おれ、ドラムどうする、高いもん買うの、家は片親でお袋が働いているんだから金ないよ」

「まあ、学校の楽器を借りよう」軒口と俺が言った。

「でも学校にドラムセットなんて無いぜ」小林が言う、「なんとか作れるよ」俺が応えた。

最初の練習日は二日後の放課後、音楽室で。

翌日、安藤はベースを買いに神田へ行った。

俺と、小林と軒口は音楽室の倉庫で苦闘していた。

鼓笛隊のスネアを三個持ち出し、二個はスネアのスプリングを外しタムタムにした。一個はスプロングを張ってスネアである。

さてシンバルが無い、俺は考えた。

一番大きそうなシンバルといっても鼓笛隊の両手に持ってガシャーンと合わせて鳴らすシンバルだ、これの取っ手の皮ひもを外した、シンバルスタンドが無い、工作部へ言ってベニヤ板と細い角材をもらい、ベニヤを土台にして角材を立て、角材のテッペンに釘を打ち、これにシンバルを載せた。

タムタムの台は教室の椅子とダンボール箱をつかい高さをあわせた。

スティックだけは小林が楽器屋で買ってきた。初めて握る本物のステックに皆な興奮した。

安藤が馬鹿でかいベースをズック地のカバーに入れて翌日学校にあらわれた時は皆な何が入っているのかと興味しんしんだった。

俺は、家でピアノの練習をしていたが、最初にやることになっていた、「バッグス・グルーブ」のテーマがなかなか弾けない。でもレコードではテーマはピアノは出てこないから、ソロのところから弾こうと・・・・でもモンクのソロって変なソロだな、普通のジャズピアノとは大分感じが違うけど、まあいいかと・・・。でも最初は音は二音しか使わない。

モンクの物まねってどうすればいいんだろう、疑問は山積みだ。

学校の音楽の先生ではジャズは埒があかない、全く判らないらしい。

やっとのことで立ち上げたジャズコンボ(アルトのワンホーン・カルテット)、さて、普段からジャズを聴きまくり、ジャズ漬け状態、授業中はもっぱらSJ誌を読み暗記する、休み時間は4人でジャズ談義、情報交換、ジャズLPの批評と、見解の相違からののしりあい、こんな日々が続いた。

当時(1963当時)の話題のLPは因みに以下の様なもの。

「BAGS GROOVE」「サキソホン・コロッサス」「カインド オブ ブルー」「マイルストーン」「モーニン」「ゼムダディブルース」「ピラミッド」「ブローイング・ザブルース・アウイ」「モダンアート」(アート・ファーマー)「JJ&GETS オペラハウス」「ウイントン・ケリー・トリオ」(ソフトリーアズインアモーニングサンライズ)「マイ・フェバッリト・シングス」コルトレーン「セロニアス・ヒムセルフ」「キャラバン/JM」「スリーブラインドマイス」「インクレディブル・ジャズギター」ウエス・モンゴメリー、「カミング・ホーム・ベイビー」ハービー・マン等など。

「おい、バッグスグルーブの録音の状況って知っているかよ?」と軒口が物知り顔でいいだした。

「マイルスが、始る前にモンクに、俺の後ろでは弾くなって、命令したんだ、だからマイルスが吹いている間はピアノの音ががしないの、でもマイルスのソロが終わるとモンクがにわかに怒り出した怒りのフレースを叩きつけるんだ。」

「1954年12月24日のクリスマスイブ録音って有名なんだ。」軒口がSJ誌の受け売りをしている。

「本当は別の録音があって、二人の喧嘩の状況までかなり録音されていて、この煽りでミルト・ジャクソンがイントロを間違えて弾いてしまい、やり直すところまでレコードに入っているんだ。」知識の受け売りは軒口の独壇場だ。

「あっ、俺そのレコード先週買ったよ、マイルス・デイビス・第二集っていうんだ。」俺が言うと、軒口と小林が、「早く言えよ、貸してよ、今度もって来いよ」と。

<実はこの話は誤解で後日、マイルスが、「喧嘩はしていない、俺のソロとモンクのバッキングは間がかち合いそうなので、ソロの時はバックをつけないでくれ」と言っただけだ、・・と言う。軒口君はその事を知らずに飲みすぎで早死にしてしまった。>

そして、小林が言った「アドリブどうするんだよ、俺は良いけどね、ドラムはバッチリだから」

「サキコロのブルーセブンのマックス・ローチのソロ完全コピーしちゃった」と自信たっぷりである。

何しろ、お箸でブリキの空き缶をたたきながら、レコードを聴いて真似して練習している。

「右手でシンバルレガートを維持しながら、左手でソロをする、右手は絶対に崩れないからね、俺、完璧」何でも一番の小林が言う。

ベースの安藤も言う「ベースって結構やれるぜ、家でレコードに合わせて、弾くけど、結構気分で合わせてゆけるよ、雰囲気だけは出るよ、コード進行って知らないけどさ」

困るのはピアノだ、当時モダンジャズの教則本なんて無い、身近に教えてくれる人も教室もない。

そんな時、土曜の午後、予備校通いのついでに立ち寄る行き着けの喫茶店(立ち寄り禁止だったが)で軒口に貸すレコードをコーヒーを飲みながら見ていたら、その喫茶店の若い従業員が「君達ジャズやるの?」と聞く、「ええ、最近やり始めたけど、コードが解らなくて」と生意気顔して応えたら、「これあげるよ」。

それが、A6サイズの譜面帳方式のコードブック、と「楽典」だった。ギター用コードブックではあったが、五線譜の上に構成音が表記されている、嬉しかった・・・・・が、これでコードの種類と転回形はわかる、・・・でも何処でどのコードになるのか・・・解らない。あとは勘を頼るしかなかった。

その従業員は1ヶ月後にはもう居なかった

SJ誌の評論は多彩だった。野口久光先生、油井正一氏、相倉久人氏、植草甚一氏、大橋巨泉氏、本田俊之氏、

牧芳雄氏、瀬川昌久氏、岩浪洋三氏、藤井肇氏等等、キラ星の如くである。

レコード評は辛らつを極め、ノースター対ファイブスターという評価もあり、数ヶ月続けての誌上論争となったこともある。

そんな時、レコードのライナーノーツにやたらオタマジャクシを書く評論家がいる、藤井英一氏だ。

「モーニンはメロディーに続き、B♭とFで応える」と書いてあるではないか。

急いでピアノの所へ飛んでゆき、たどたどしく、B♭を押さえ、続いてFを押さえた。

出た、同じだ、ボビー・ティモンズと同じ音だ!!。ちゃんと三和音で同じ音だ。普段から聴力の鈍い耳なのでこれが出来たときの感激はいまだに忘れられない。

翌日、学校へゆくなり、軒口に言った「おれモーニンのコード見つけたぜ」

「本当かよ、じゃあ昼休みにやってみよう」

40分の休み時間中、音楽室に潜り込んで試した、軒口はアルトを携えて来た、

軒口がテーマを吹く、ピアノがB♭とFを弾く・・・でも合わない。音程が違う。一体どうしたんだろう、二人は考え込んでしまった。

「でもライナーノーツに書いてあったぜ、だから間違い無いよ」

軒口はしばらく考えて、「そうか、俺が違うキーで始めればいいんだ」

「この辺のキーだろう」 「あっ、合ったよ」

「そういえばアルトってE♭の楽器だって書いてあった、アルトの指使いの教則本買ったんだ」

「そうか、アルトとピアノで短三度違うということだ」

まるで新発見をしたような騒ぎで、その日の放課後の練習は音の食い違いだけは免れた。

ブルーノートとは、セブンスコードとは、1ヶ月毎に進歩?・・・していった。

でもコードチェンジとアドリブは未だ結びつかない。

Fでブルースを始めると、テーマはコード進行するけど、アドリブに入ると進行せず、そのまま、何時までもFのスケールでアドリブを続行してしまう。

早いパッセージを弾きたい、でも上手く指が動かない、4小節くらいのフレーズを覚えてこれをミソにしてそれらしく雰囲気をつくる。「少しはそれっぽくなったね」軒口がいった。

ドラムの小林がいった、「俺にもソロをくれよ」。何時も小節を数えている訳ではない、お互いにこのフレーズをやったら次の人へと決めを作ってソロを渡した。

ドラムソロの受け渡し方を決めたが、また難しいことを言い出した「4バースチェンジって知っているかよ」

「解るけど、4小節数えなくちゃ」と安藤が言う。

軒口が「そう4バースってカッコいいよな、決まるとな」

「でも4バースって何回やるの」俺は聞いた。

軒口がまたいいかげんなことを言う「俺がこれを吹いたら、テーマに戻るの、それでいいよね」

みんなOKであるが、4人が4人ともここが4小節の切れ目と一致するまで、喧嘩の連続。

「ここで4小節だろ」小林がいう、「違うよあと2拍あるよ」と安藤が言う。

「俺は数えているのだから正しい」と小林が譲らない。

駅までの帰り道、どっちの4小節が正しいかで、もめ続ける。

軒口が言った「俺が決めのフレーズを吹いて、最後の一音で足をダーンと床を踏み鳴らすから、そこが切れ目だ!」

凄い4バースチェンジとなったところで、ゼンさんは目が覚めた。

ソファーでうたた寝をしていた。「夢か・・・」

ゼンさんは冷蔵庫から冷えたペリエを出した。

ボヤーとした頭で考えていた、「・・・今日は日曜日か・・大野が若いピアノを連れてくるとか言っていたな・・・」

眠気覚ましに何をかけようか、これから店を開けなければ、もうスタッフは来ているかも知れない。

時計は5時を指していた、秋の夕陽はつるべ落としか、既に暗くなりかけている。

こんな時分の音は何がいいか・・・・

「ワーク・アウト」/ハンク・モブレイ(BN)をかけた。

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ゼンさんはモブレイの音を聴いて元気を回復した。

<作者註:文中、登場する軒口君こと軒口隆策君は大学を卒業後、楽器屋へ務め、「ジャズ批評」の初期にも執筆していましたが、41歳で肝臓を患い早々と他界、ドラムの小林重隆君は、外語大を出て翻訳家になりBBC放送の翻訳を、そして、山口百恵と宇津井健の連続TVドラマ「赤のシリーズ」の脚本などを書いていましたが、4年前に59歳で他界しました。ジャズ仲間のカルテットは、残すはベースの安藤君と私だけに・・・デュオしかできません・・・。>

<次回に続く>

 

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