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2010年6月15日 (火)

エピソード10:「パパ・アート・ブレイキーの話」の巻

久々にゼンさんは、母屋に閉じこもり書斎の整理を始めた。書斎といってもLPCDで埋め尽くされ、本もジャズ関係、音楽関係が多い。

もともと、13歳からLPでコレクションを始めたが4000枚の時にCDという媒体が出現し、戸惑いつつ、媒体の変換をしてきた。2000枚のLPでは床が抜けた経験もある。

今はLPの内、重要なもの、価値あるものだけを残し整理したため、LPは1000枚くらい。

一時は同じアルバムでLPCDと両方ダブっていたため、混乱をきたしていた。

ゼンさんは技術の進歩との妥協点を自分の価値観で線引きし、1000枚のLPに集約し、残りはCD媒体に託した。

若干のカセットテープもあるが、これは特殊な内容ばかりで、音の状態は悪いが歴史的なまた希少なデータとして捨てられないものだ。

ゼンさんの心の内の言葉「私が死んだあと、このコレクションはどうしよう、残された者にとってはただのゴミかも知れない、いずれ生きている内に自分の納得のゆく形で、纏めて誰かに、叉は組織に委託寄付をしよう、これを理解してくれる人に・・・」

1000枚が雑然と棚に入れただけで、大まかにはアルファベット順に区別していたが、今日はリーダー名別で且つレーベル別で、尚且つ、自分の意味付け別、という分け型をしようと思った。

でも、一枚づつジャケットを見ると、一枚毎にそのアルバムを買いに行った当時の状況、初めて針を下ろし音を聴いた時の気持ちが蘇ってきて、区分は進まなかった。

FONTANA盤のジャズ・メッセンジャーズ(モーガン、ゴルソン、ティモンズ、メリット、ブレイキー、一曲だけバルネ・ウイラン)そう、「危険な関係のブルース」が入っているLPだ。(写真参照)

060226_5

高校生の頃毎日聴いていた。LP盤を見てみると、盤の溝がもう白くなっている。

ジャケットの表は若き日のモーガン、ゴルソン、ブレイキーが写っている。

このジャケットを見ていると、やはり、BN盤の「モーニン」が見たくなるし、ユナイッテドアーティスト(UA)盤の「THREE BLIND MICE」を取り出したくなる。

ジャケットからして黒っぽさ満点である。

特に「THREE BLIND MICE」は1963年の二度目のJM来日の時期に買ったもので、3管編成が話題となった。(ショーター、ハーバート、フラー、ウオルトン、メリット、ブレイキー)

出だしからモーダルな編曲の「THREE BLIND MICE」が流れる、マザーグースの寓話からのメロディで単純なリフをショーターが当時話題のモード手法で編曲、ファンキーな味付けとなっているし、ニ曲目はハーバートをフューチャーした「BLUE MOON」で最後のカデンツッア風エンディングが素晴らしい。

実況録音盤なので、聴衆の興奮度合いも伝わってきて、LPとは言え、臨場感にあふれている。

Jazzbook0924_086_2

私はこのLPにある6曲(今はCDがBN盤として出ており、曲目も増えている)は今でも直ぐに口で全曲ソロまで歌える。

全てのソロパートを暗記しているというか、何度も聴くうちに覚えてしまった。

LPをターンテーブルに乗せると、私はステレオスピーカー(古い言い方)の真中に立ち、音量を実際と同じくらいに上げる。

先ずはウエイン・ショータに成りきる、そして、フラー、ハーバートと共に、テーマを自分がテナーを吹いているが如く、否、実際に口テナーで音真似をして歌う。こうして全楽器のソロを口三味線ではなく、口楽器でやる、完全に成りきっているから、傍から誰かが見ていたら、笑いものか、なんか変な人と思われるに違いない。

これを何度繰り返しただろうか、100回、いやもっとだ。

ブレイキーとJMは僕の憧れであった。

でも後年、日本で開催されるジャズフェスでブレイキーが来日した際、今はもう無い伝説のジャズクラブ六本木の「ミスティー」(現在のとは違う)に来た、もう深夜に近かった。当日の演奏者が片付けを始めたところで、ブレイキーが一杯機嫌でもっとやろうという。ピアノも同行してきている。

それから、約2時間、あれをやれ、これをやれ、そしてコードが違うと始った。(因みにブレイキーはドラムの前はピアノを弾いたことがある)その内JMのピアニスト、ジョニー・オニールを残して消えてしまった。

僕はお腹がすいたので、一緒にレストランへ行くかと聞いたら、行くと言う、おかげで僕がご馳走する羽目になってしまった。食べ終えて、「ミスティー」の前に駐車しておいた自分の車を取りにいったら、クラブのマネージャーのK氏がブレイキーが呼んでいる、この電話番号にいると、番号を渡された。

オニールは電話できないから代わりにしてくれというので、連絡し場所を確認し、霞町の小さなピアノバー「Sunny Side」へオニールを案内した。

僕はもう午前3時くらいなので、送り届けて帰ろうとすると、ブレイキーが「THANKS!,TAKE OFF YOUR COAT」という。それから午前5時まで、ブレイキーとブレイキー夫人(日本人の)とオニール、店のママ、年行ったピアニスト、そして僕の騒ぎがつづいた。

僕はハンカチを出した、ベージュの無地のハンカチが丁度良かった。サインをねだった。

彼はハンカチにマジックで「子供を沢山つくれ!パパ」と僕のファーストネームを書いた。

爾来、僕はブレイキーをパパと呼ぶことになった。

5時過ぎにブレイキー、夫人、オニール、を乗せて自宅とは反対の新宿のホテルへ彼らを送った。

その時、僕は名刺をブレイキーに渡しておいた、今度来るときは電話をくれといって。

ところが、その電話は翌日会社にきた。

今度は寿司が食べたいという。

マネージメント会社は何をしているのだろうと思いつつも、僕は憧れの人から直に電話が来て嬉しかった。

日本に来る度に彼は電話をしてきて、来日の度に二回くらいは必ず会った。

僕はJMを1961年12日に産経ホールで聴いたことを話、持っているアルバムの話をし、「リー・モーガンってどんな人?」とか、マイルスやモンクの話、人となりを聞かせてもらった。

アート・ブレイキーはとても温かい人というのが、一言で言える印象だった。

そんなサインをハンカチに残して彼はこの世を去ってしまった。

最後のころ、六本木の「サテンドール」にウイントン・マルサリスを連れてきた時、彼を紹介してくれた。

その言葉がまた愉快で「このボーヤ、結構ラッパ吹くんだ、未だだけどこれから良くなるから覚えておいてね」と言った。既に天才現ると話題のウイントンをだ。

僕のJAZZの原点である、アーサー・ブハイナ・パパ・ブレイキーと最後には個人的に仲良しになれたことは、僕の何物にも代えがたい宝経験である。

1000枚のLPの整理の最初でもうこれだ、何時になったら終わるやら。

<次回に続く>

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コメント

まさにジャズの縁ですね。しかもブレイキーという大御所と。
自分から一歩踏み出すことが大切だと思いました。

心息さん

こちらにもお出で頂きありがとうございます。
MIXIではお世話になっております。

ジャズ・ミュージシャンは芸能人とちがい、先ずハートが温かい・・・そこが好きです。

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