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2010年8月16日 (月)

エピソード31:「おいらはドラマー・・・だった(大学時代の話)」

<前回より続く>

常連の船橋君が「ゼンさん、大学時代にもいろいろやったって聞きましたけど、何をやったんですか?」とピアノの後ろの丸テーブルを囲んで聞いてきた。

富田さんが、「ゼンさんの学生時代って、65年から69年という60年代後半だね」と。

ピアノの吾郎もドラムの大野もグラス片手に聞きたそうな顔をしている。

ゼンさんが語り始めた・・・・・。

ジャズを如何にやるか、そして好きなスキーを如何に続けるか、ついでに、当時の流行として、自動車レースをやりたいと・・・随分欲張っていたんだ、でも4年間で全部やりたかった。

大学は都内でね、大学全員で6000人という中規模の学校で静かで居心地の良いキャンパスだった。70年安保で学生運動が盛んだったが、その学校の学生運動はそれほどではなかったしね。

大学ではフルバンドしかなかった、しょうがないので、そのフルバンドのピアノで入部、でもフルバンのピアノって存在感が薄くてね、何弾いているか分からないし、出番も少ない。そしたら、ドラムがとんでもなく下手クソなの。

それで俺にやらせろって、一番高い台の上で音も大きいし、フルバンのドラムは花形でカッコいいしね。

ソニーペインになったつもりで派手にやったよ。

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同時にスキー部にも入ったけど、僕の専門のアルペンよりノルディックが盛んでね、1年で方向性が違うって退部して、高校時代のスキーコーチのチームへ行ってしまった。越後湯沢が拠点でオリンピック強化選手がいて、僕はいつも旗ざお担ぎと塩バケツを運んで、スラロームコースの整備をさせられたいた。でも東京都では二番目に早かったけど、東京出身なんてバカにされていたよ。地元の中学生といい勝負。

夜はジャズ好きのコーチが経営するロッジでピアノを弾いて遊んでいた。

「スキーができて、ピアノが弾けたから、結構もてたのよね」とヨーコが合いの手をいれた。

大学二年のとき、凄いドラムが入部してきた、とんでもなく上手い、それでさっさとポジションを譲ってね。

そしてそのドラムに言ったの、あと上手いベースがいないかと・・そしたら、いますと、連れてきたベースがまた良いセンスをしている。

「それが、今でもここに遊びに来てジャムる、川島さんや森さんだね」と山ちゃんがいった。

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そう、彼らとピアノトリオを組んだの。3ヶ月も練習すると、思いが一致して、結構ピーターソン風になるわけ。

時々ラムゼイ・ルイスもやってね、当時流行った「イン・クラウド」を弾けば受けたし、ビートルズナンバーでも受けたしね。因みに僕達は武道館で生ビートルズを聴いているんだ。

世の中はエレキブームでね、ジャズのピアノトリオだけではいまいちインパクトが弱いというので、三人で考えたの、もう一つバンドをつくろうって。

それで、「セルジオ・メンデスとブラジル66」のコピーバンドをつくった。

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当時付き合っていた、大学の同級生の女の子が歌が上手くてやりたいというので、彼女の親友と二人をフロントのヴォーカルにして、見栄えも良い女性だったのでまた人気がでたよ。パーカッションとギターを加えてね。

よその大学のパーティーやコンサートにも招待されてね。

なんたってセルメンにクリソツでね、踊れるし、聴かせるしで。

そこへ、K大学が作った、学生プロダクションを一緒にやらないかと誘いがあって、入った。

もう連日が仕事で学業どこではなかった。

学生の癖に月給制でね、大卒初任給が2万5000円の時代に、毎月7万円の収入があったよ。

毎晩、ステージが終わると、ステディな女の子を連れて夜食へと繰り出す。

六本木、赤坂、青山、原宿とね、当時の深夜のかっこいいスポットの常連だったね。

ニコラス、トップス、キャンティ、時々は横浜のレッドシューズやゴールデンカップス、リキシャルームにまで足を伸ばしてね、深夜の第三京浜を車を連ねてね。

冬はスキー場でバンドをやって一挙両得でね。

夏は軽井沢で、まだ三笠ホテルが営業している良き時代、三笠ホテルのバーは良かったね。うちも旧道に古い別荘を持っていて、毎夏、1ヶ月から2ヶ月をすごしたものだ。

7歳くらいから45歳までは夏は軽井沢しかしらなかった。

木々の木立の合間からキャンドルの灯がもれてくる、夏なのに夜は少し冷える感じでね。

夏にはこのバーで毎晩パーティーを開かせてもらった。

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避暑地の夜は皆暇だからね、顔見知りが毎晩のように集まってきて、ダンスをしてね、いい軽井沢だったね。

(現在の三笠ホテル、重要文化財、この右端にバーがあった)

「そう素敵なバーだったわ、キャンドルだけの照明で、全てが大正ロマンがそのまま残っているような雰囲気でね、そして静かなの、大人しかいない場所よ、何時までも語れる場所ね、でも相手しだいだけど」と・・・常連でデザイナーのコシカワさんが言った。

この学生時代の音楽活動の中から随分と有名になった人達が出たんだ。

世界的に有名になったロック・グループYM*の二人、HHやTYもそうだし、有名作詞家のMTも、直木賞作家になった今は亡きKTも、ロックギターの名手数年前に他界したNSも・・・我々の仲間から出ていったんだ。

場所柄、良家の子女が多いかった、世に出るチャンスもあったんだろうな。

毎晩、パーティーが終わるの各自の別荘持ちまわりで二次会を朝方までやったね。

その人間関係は今でも続いているね。

でも大学3年のときに、少しは勉強もしなくてはと思い、一番難しいゼミに挑戦して入ったんだ。

勉強とバンドの両立は大変だったけど、持ち前の、何処でも寝られる特技でなんとかなった。

アイツは寝ないでも平気とか言われたけど、違うんだ、何処でも何時でも寝ることができた、だから両立ができたんだね。

卒業の時の記念ライブは500人入る会場を満員にしたよ、開場前に行列ができた。

就職の時には、有名プロダクションの社長が直々に、一緒にプロダクションをやりませんかと、でも音楽ではプロになる気は無かったからね。

それに既に業界の裏側も知っていたから、遠慮したの、「趣味にしますって」ね。

好きなジャズをやって、スキーもやって、富士スピードウエイで草レースもやって、勉強もして、4年間は今考えても充実していたし、決して短いとも思わなかった。

良い勉強が沢山できたし、今の布石になる様なことが出来てね、いい大学時代と思っている。

「でも、そのセルジオメンデス&66のバンドを組んだ女性と4年間付き合ったけど、卒業してから分かれてしまったの」と京子ちゃんが聞いた。

「まあね、いろいろあってね」、では僕の大学時代の話はこれで終わり。

「ゼンさんは恵まれた環境にいたね、でもそれを活かした生活をしているね」と吾郎がボッソと言った、「幸せなことだよ、誰にでもできることでは無いし、そんな凄いアーティストがまだ世に出る前に一緒に活動していたって、それもいい経験だし人脈だよね」と大野が言った。

富田さんが、「それをゼンさんは肥やしにして無駄にしないで生き方に役立てていると思うよ、単純にボンボン的な事ではなくね、世の中のピンからキリまで知って、その上で謙虚になれれば最高だよ」と。

「KIND OF BLUE」の夜は更けてゆきました・・・。

<次回へと続く>

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