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2010年10月21日 (木)

エピソード55:「マイルスがやってくる」

<前回より続く・・続き話である、架空と妄想のジャズクラブ、「Kind of Blue」で繰り広げられるバカ話・・・でも、「たかがジャズ・されどジャズ」なのだ!>

ある日のアフターアワーズで、常連の船橋君がゼンさんに聞いてきた。

「ゼンさんが初めてマイスルを生で聴いたのは何時なの?」

「1964年さ」

「どんな年だったのですか?」

「そうだね・・・・日本中が騒がしかったなあ」

1964年7月、「ジャズギャラリー8」が銀座に開店した。渡辺貞夫さんがバークリーから帰国して、そこで第一音を発した。

東京は10月に開催されるオリンピックでアチラコチラが工事中で騒がしかった。

高校3年生は受験勉強で大変な時期だ。

そんな中、いつものバンド仲間で「ジャズギャラリー8」へ出かけた。どうも夜はチャージが高いらしい、しかし昼はジャズ喫茶より少し高いくらいで生の音が聴ける。たしか、コーヒーが300円くらいだったかと・・・当時普通の喫茶店では80円くらいだったと思う。

出演者の名前は皆、若いメンバーで勿論レコードなどで音を聴いたことはない。

テナー:武田和命、トランペット:日野照正、ピアノ:渋谷毅、大野雄二、ベース:稲葉国光、金井英人、ドラム:富樫雅彦、等・・・。

僕達は学校帰りに学生服のまま、出入りしていた。

そんな時代背景の中で、我々の話題は、すぐそこに迫った「東京世界ジャズ祭」の話だった。

何しろマイスルがやってくる、それもいつもレコードで聴いている編成ではない、全く新しいメンバーで来るという。

唯一そのメンバーで聴けるレコードが「セヴェン・ステップス・トウ・ヘヴェン」で、これを何度も聴いた。

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評論家の先生は、わずか18歳のトニー・ウイリアムスが凄いという、最初、混同していけないと、わざわざ、「プラターズ」のトニー・ウイリアムスとは別の若者ですよ・・と注意書きがあった。

(注:コーラスグループ「プラターズ」の「オンリー・ユー」で高音を出すヴォーカルがトニー・ウイリアムスで同姓同名、こちらの方が有名だった)

ドラムソロは少し聴くことができたが評価を下すには充分な情報が無かった。

「なんとメロディアスな・・・なんと斬新な・・・」と評論家先生は言うが分からなかった。

僕たちと年が変わらないトニーというドラマーが既にマイルスのグループに入ってやっている・・この事実がとても衝撃的だった。

因みにこの時マイルスは38歳である。

マイルスの他にも沢山のスターミュージシャンがやってくる、全部聴くにはお金が無い、選択で大いに迷った。JJやケリー・トリオも来るし・・・。

勿論、マイルスは必修だった。

暑い日だった、学校の帰りにスイング・ジャーナル社へ切符を買いにいった。

それというのも、SJ社が学校の近くにあったからだ。

今の東京タワーの麓に来るまえで、西新橋にあった、番地を頼りに訪ねていった。

汚い古いビルで、一階が半地下みたいになっており、歩道にはSJ誌が沢山積まれ、それをランニングシャツ姿の人が汗だくで運んでいた。(内心、Sj誌には就職するのは止めようとその時思った)

「アノー、世界ジャズ祭の切符を買いにきたのですが」とその人に尋ねた。

「中にいるアノ人に聞いて」と、恐る恐る足の踏み場もない屋内に階段を数段下りた。

もう蒸し暑さが凄かった。

我々はみな、3枚くらいの券を買った、安い券ではなかったので、マイスルは一番良い席にして、後の二つは立ち見席にした。

新宿厚生年金ホールの前から5番目の少し下手よりの席だった。,

その日は、マイルスの他に、松本英彦カルテットが組まれていた。

1964年714日、新宿厚生年金ホール。

時間が早すぎたので、斜め向いのジャズ喫茶、「ヨット」で時間をつぶした、その中には日野元彦さんがいた。みんな時間が近づくと一斉に店を出て、ホールへと向かった。

松本英彦カルテットで印象に強く残っているのは、「リンゴ追分」をモードでアレンジし、松本さんはとても良かった、そしてベースの寺川正興さんが、凄かった。小さい体でとても大きなベースの音を出し、鋭いフレーズを連発し、ソロイストに絡めていた。

僕はスコット・ラファロではないかと思ったほどだ。

いよいよ、御大、マイスル・デイビスの登場だ。

Tp:マイルス・デイビス

Ts:サム・リバース

P :ハービー・ハンコック

B :ロン・カーター

Ds:トニー・ウイリアムス

サム・リバースという初めて聞く名前のテナーもいるが、何しろ全員がはじめての生の音だ、始る前から興奮が高まっていった。

イソノ・テルオ氏の司会で始った。

マイルスはとても神経質でシャッターの音が聞こえただけで演奏を止めてしまうときいいていたので、この日は隠しカメラなどを持ち込むことは止めたし、勿論咳き一つに神経をとがらせた。

マイルスの音は大きかった、鋭かった、そして楽器が綺麗でスポットライトに反射するとブルーの耀きをしていた。

初めて聴くサム・リバースは前衛という前評判の割には聴きやすく、このグループにあっているのではと思った。しかし、楽器が汚かった・・・

そして何より目に焼き付いているシーンは、マイスルがソロを終わると舞台袖に下がらずに、トニーの前にゆき、客席に背を向けて、トニーと面と向かって、目で合図をおくり、もっと煽れというような素振りをしたり、アクセントがバッシッと決まるとニヤッとしたり、もう個人指導という感じであったことだ。

僕は当然ピアノのハンコックにも興味があったが、あの、ファンキーピアノのハンコックとはまた違うホリゾンタル・フレーズをスピード感をもって弾くハンコックにビックリだった。

ロン・カーターにしてもそうで、ベースというとても力の要る楽器なのにどうして休まずあんなに弾けるのだろうかとただただ驚異であった。

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この時の実況盤が発売されたのはこの歴史的な演奏があってから5年後であった。

サム・リバースとマイルスの一緒の盤はこれ一枚しかない、この後、サムは独立し、BNからリーダー作を出す。

一方、マイルスにはウエイン・ショーターが入団し、60年代後半からの新しい方向性をこのグループが築くことになる。

そういう意味でもあの時の演奏は意味深いものであり、また内容も良いライブ盤になった。

初め日本でしかこの盤が発売されなかったので、海外の友人から送ってくれと頼まれたことがある。

僕の網膜に映って残っているマイルスは、何しろ立ち姿の良いトランペッターで、仕立ての良いスーツと吹く姿、そしてその音が全てマッチし一体化され、全体が表現者として訴えてくる力みたいなものを持っているアーティストで、正にオーラとはこのことを言うのではないかと思うのである。

その後、何度かマイルスは来日している、大体聴いているが、この時のエキサイティング度は最高でこれに勝る演奏は無かった。

「まあ、そいうことだね」とゼンさんは思いで話を切った。

「ところで、何故、マイルスがガーランドやフィーリーのリズムセクションを好み、トレーンやキャノンボールとやったか・・・それが何故ケーリーやコブに変わり、モブレイやジョージ・コールマンになり、サム・リバースになり、ショーターになったか・・・、マイルスの本心や如何に!これを知りたいかな?」とゼンさんが周囲の常連さんに聞いた。

「そんなことを知っているのですか?」

「まあね、大体のジャズファンなら知っているのだけどね・・自分で勉強しなさいとか言ってもいいんだが」

「聞かせてくださいよ」船橋君が食いさがった。

これを知りたければ書いてもいいが・・・皆さんもうご存知ですよね、敢えて自慢げに書くのは考えます。

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1964年はオリンピックで世の中が浮ついていました。巷では日本の体操のTV中継をしているのを脇目に、渋谷道玄坂を登り、百軒店の行きつけのジャス喫茶「ブルーノート」へ行き、パラゴンスピーカーから出てくるコルトレーンの「オレ」に浸っていました。

ドルフィーとトレーンが絡み、ワークマンとデイビスがアルコで絡み、タイナーとエルビンが大きな揺れを創り、そんな音の洪水の中で1964年を過ごしました。

特に夏には「東京世界ジャズ祭」があり、マイルスをはじめ一挙にJJもケリートリオも、一緒に来てしまったのです。

(写真は厚生年金ホールのウイントン・ケリー・トリオ、チェンバースとコブの姿と三人が一緒に東京で写った珍しい写真)

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ジャズ年表をみると1961年から1964年がラッシュですね。

毎月のように、コンサートの立ち見席に行きました。

ジャズのめぼしい人はみなこの時期に初来日をしています。

一方で受験を控え、試験勉強どころではなかったですね。

毎日、昼飯を抜いて、小遣いを貯め、レコードだコンサートだと・・。

そして夜な夜な我が家にはジャズ好きがあつまり、毎夕食は家族だけで食べたことがありません。

何故、我が家に集まったか・・・それは食事が出るからだけではなく、また泊まれるだけではなく・・・時効だから言いますが、タバコが吸えるからです。

両親はと言うより父親がどうせ、自分だって17歳から喫煙をしていたといい、危ないから影で吸うなと。

父親は当時「いこい」を吸っていましたが、母が身体に良いとフィルターつきの「TOKYO64」という五輪マーク入りのタバコを用意してくれていたのです。

みんなこれで一服できるので、我が家がたまり場になったのです。

因みに、初めての禁煙は、身体に良くないからと20歳の成人式に始めての禁煙をしました。(笑)

それから禁煙のベテランになり、52歳で全面禁煙が達成できました。(・・・話がそれた!)

話をもどしましょう。

マイルスはトレーンやキャノンボールとのアンサンブルの音が好きだった。

でもみんな独立志向でかつトレーンは長いツアーを嫌った。

エバンスはとても音楽的にはあっていてもっとやりたかった、肌の色の問題ではなく、より自分のやりたいコンセプトを見つけてそれを試したがった。

エバンスだって肌色は気にしていなかった。

トレーンが自分の変わりにドルフィーを推薦した・・マイルスは好きだったが自分の音のコンセプトには合わないので止めた。

ショーターはJMとの契約期間があったので、それまで待つことになる。

フィーリーとガーランドは相変わらずクスリだ、そこであまり聴いたことがないケリーを使ったら、ガーナーとガーランドとジャマールを合わせもったようなピアノなので気に入った。

フィーリーのトラでコブが来た、これでリズムセクションが整ったと・・・言っている。

モンクは嫌いではないがテナーに向いている、だからトレーンと一緒だとよく合うと思ったとも。

ギルモア、モブレイ、コールマンはみなトラだった。

ジミー・ヒースとやりたかったが・・・ヒースはドラッグで執行猶予中で行動範囲が限定されていた。

そして、トニーと出会う、ピアノはハンコックとザビナルとどっちがいいか迷ったらしい。

そして、背後にはケチなプレスティージレコード社と大金を積んでくるコロンビアのマイスル争奪戦があった。

マックス・ローチとは犬猿の仲である。

これは、アビー(ローチ夫人)とフランシス(マイルス夫人)の女性問題が絡んでいて、マックスの嫉妬心って凄いもので、カーネギーホールに殴りこんだのも、人種差別抗議ではなく、ローチがフランシスを好きだったという事に端を発した嫉妬問題が主だそうだ。

<次回へとまだまだ続きますね・・こんな話。>

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コメント

大変面白く、興味深いお話です。
なぜ、マイルスがそれぞれのメンバーを選んだか、その裏事情が良く分かります。
このようなお話をしてくださるのはshinさんだけだと思います。

この話は、マイルスの自叙伝の中の話しの脚色です。
マイルスには数種の自叙伝があるようですが、翻訳ものはどれも良くないようです。
マイルス独特のスラングがあり、それが上手く訳せてないようです。
苦心して原文で読むしかないかもしれません。但し、このスラングの世界が大変です。
英語の達者な人に聴いてもだめです、黒人のミュージシャンに英語で質問して聞きただす、この作業が必要です。
何度か知り合いのミュージシャンにスラングの意味を聞いたものです。

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